お休み

いい天気だ。仕事が急に休みになった。
時間がぽっかり空いたので、お菓子を焼いて、コーヒーを淹れた。

こんな日和がよくて心も凪いでいる日には、自分の人生がさらさらして清潔なものに思えてくる。世界は美しくて、自分は祝福されていて、過去も未来も愛しい。

自分を信じられず、息継ぎもできず、孤独と強迫観念に圧縮されてぐずぐずになった自分の人生や日常を、乾かしている。

それでも続く

なんだか言いたいことが言葉にできない。
もしかしたら、もう言いたいことなんて無いのかもしれない。

少し前に、ずっと縛られていたある物事と決別した。憔悴しきった私の胃は裂ける程の痛みと燃えるような不快感を通り越して白色矮星のようだった。渦中にいた私は、視界に入るものひとつひとつを丁寧に呪っていき、いつも頭の中は世界への抗議で満たされていた。掃いて捨てるほどに書きたいことで溢れた時間には相当の幸せがあったけど、ある朝目が覚めたときに思った、もうごめんだと。もう戻らない。さよなら。肩の荷が下りた途端に呪詛は消え、歌詞のない曲を口ずさむようになった気がする。

言いたいこと書きたいことはもう無いかもしれないけど、それでも筆をとる指は軽い。色んな人の文を読んで、聞いて、もっと言葉に素直になりたい。

視覚

杳です。

カメラを買いました。
Paper Shootという台湾のメーカーが出しているデジタルトイカメラ

www.papershoot.com

 

 

かわいい。
写りもフィルムカメラみたいです。

でも撮影には少しコツが要るなと感じました。
背面モニターがなくファインダーも当てにならないため、画角が把握しづらくピントが合っているのかもわからない。
しかしそんな風にして撮れたものをその場で確認できないというのはなんだかわくわく感がありますね。

 

散歩しつつ撮ってみました。

 


良い。
思い出って、現実より美しいものだから。

 

半額の本仕込

最果て(漫喫)

家は好きだ。でも家に一人でいるときは本当にひどい気分だといつも思う。

寂しいってことなのだと気づく。人は誰かの存在を感じたくなったり誰かに存在を感じてほしくなったりしたときの気持ちを寂しいと表現するものだと知っている。しかし寂しみの当事者になった自覚は全くと言っていいほど無い。寂しい。私が。ふむ、人は、寂しいと思うものなんだね。

こういうときはいつも宛てもなく歩く。街行く人たちの談笑や車の排気音、夜更けまでやっているお店の明かりを気が済むまで浴びたら、少し身体が温かくなる気がする。

しかし昨日はもう少し足も手も伸ばして、漫画喫茶に行った。漫画喫茶は良い。独りの自分が保たれたまま、そこかしこに誰かの気配を感じる。誰かの寝息さえ聞こえる。そういった空間は意外と他にはない。それに漫画も読み放題だ。共感の伴わないNANAは他人事だがそれなりに笑えなくて、良い意味で心がざわつく。

少し疲れたと思って退店すると、午前4時だった。とぼとぼと帰路に就く。家に着いたらすぐに眠れる気がして、心は軽かった。良い夜を過ごした。また行きたい。

エッセイは特に

一日が長くなってきた。少し前までは、瞬きをすると夜になっていた。少し体力に余裕がでてきたのだと思う。

好きな作家のエッセイ本を読んだ。作家を好きであればあるほど、自分にとって好ましい内容であればあるほど、読後に落ち込んでしまう。読書は難しい。
私は基本的に人を見くびっている。どんなに慕わしい相手でもだ。そうしてその人から自分が想像だにしないほど素晴らしい表現が飛び出すと、それらが冷や水となり私の芯を冷やす。今までその人を見くびっていたんだろう。知った気になっていたんだろう。今になってその良さに驚くとは、何と浅はかで無礼で愚かしいことか。恥を知れ。私の中の私が私を詰る。

もっと楽に本を読めないものか。好きな人を好きすぎるのかもしれない。

コーヒーにまつわるあれそれ

雨が降っている。絶好のコーヒー日和といえる。雨の日に飲むコーヒーは最高だからだ。

今朝豆を挽きながら色んなことを思い出した。最近はとんとやっていないが、とかく人のためにコーヒーを淹れる機会が多く、私はそれを愛している。

小さな会社で仕事をしていたときは、よく社長さんにお願いされてコーヒーマシンをいじっていた。機械なんだから人によって味が変わったりしないんだろうけどね、本来の仕事じゃなくてこんな仕事ばっかり部下の女性に頼んでいては怒られてしまうねなどとよく言っていた。それでも私はその作業が大変好きだった。コーヒーマシンはそれまで触ったことがなかったけど、いつもおそるおそるだったけど、大変好きだった。
それより前、カフェで働いていた。カウンターで注文して受け取って席に着く形の店だった。思えばその時から、人を恭しく迎えたりにっこり笑っておつりを渡したりすることがコーヒーを淹れることよりも好きだった。

それからずいぶん時間が経ったけど、自宅を訪ねてくる知人の多くは私のコーヒーを楽しみにしてくれている。そわそわしていようとどんよりしていようと、コーヒー淹れようかと言ってみるとぱっと顔が綻ぶ。私はそれらの顔が好きだ。待っている誰かの存在を背に、ゆっくりとコーヒーを淹れる時間が好きだ。じっと座って、あるいはお湯が注がれるのをのぞき込みながら、待っている人たち。

それが誰だったか忘れたわけではない誰かが、コーヒーは一人分よりも二人分を一度に淹れたほうがおいしいんだってと教えてくれた。その人と私の二人分で淹れたコーヒーは確かにそのときおいしいと思えたものだ。私は今でも、そのときよりも上等な豆で、そのときよりもまずいコーヒーを淹れて、飲んでいる。

2023

2023 = 7 * 17 * 17
とすぐ素因数分解してしまうのは、理系だからではなくそういうしょうもない知識で自分を保っているから。

お久しぶりです、杳です。

季節は巡りに巡り、冬、新年、立春です。

それからの私は、疲れ果てて全てをお休みしたり、かと思えば柄にもないことをしゃかりきにやったり、それにも擦り切れて眠りこくったりしていました。痛い、生きることが。自分をどつき回す衝動性にうんざりしながら、それがなければ自分ではないと、無くては生きていかれないと思う。大きすぎる感受性に振り回されては、遠心力で社会に衝突する。何度でも自分自身をずたずたに切り裂いては、泥の中を這って這って生きている。カーテンを閉じたままの部屋に朝日が差すことを、いつも夢みている。

 

最近買ったサボテン