優しさ

常に優しくありたく、この目をどうしても閉じたくない。

誠実さ、落ち着き、視野の広さ、深い想像力、それらのない人と人の関係なんて、そんなもの、そんなもの。

詰まるところ、自分の思い遣りなんぞ高が知れているという失望と、それでもつなぎ留められていてくれという往生際の悪い静かな祈り。

 

 

(追記)太宰治の書簡の中の、優と書いてハニカミと読ませようというところ。本当にそうだと思う。思いたい。

人を憂うる、ひとの淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、また人間として一番優れている事じゃないかしら、そうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。

内満つ時

杳です。
数年前から、同じ時間を繰り返している気がする。

日常の中の小さな不和が身体の中に降り積もって、自分が消えてしまう。目が覚めてもカーテンが開けられない。名乗ることができない。音のしない靴を履き、色のない服を着る。笑うことも歌うことも話すこともできずに、指先から少しずつ凍っていって、やがて意識が世界から消える。具体的に言うと呼吸が止まり、抽象的に言うと心臓が止まる。

どんなに生きてもしょうがない、寂しい悲しいとみんな思っているだろうか、あの人もあの人も。夜をこめてさまよう盤桓の道すがら、とらえようのない寂寥が心を食い尽くす。自分は一体誰と思う自分もなく、時間の中をただ滑る。

そんなとき、日常に打ち込んだ楔があるといい。目に止まるでも、躓くでもすれば。自分の重さを足の裏に感じて、目を閉じて、息を吐き出せる。息を吐き出せると、息を吸える。何度か繰り返して目を開くと、世界には色があり、音が満ち、味がして、季節の匂いが仄かにしていることを思い出せる。少しだけ浮上して顔を出した水面に、朝日を眩しく思う。

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ここずっと論文の執筆をしていました。国際会議に出す原稿ですので、普段自分の頭の中にあるリズムでは書けず、自分ではない誰かに腕を乗っ取られて書いているようでした。締切が繰られたことにより、まだ作業は続く。

この投稿を書き始めたときは部屋が湿気でいっぱいだったのに、もう自分が住んでいるところは夏模様です。季節の移ろう時、どうか健やかでありますように。そして、また自分を失っても、部屋の中に撒いた種に足を引っ掛けて呼吸を深くし、何度でも自分の像を思い出せますように。

滴る

杳です。

好きなものの季節が来て、街でよく見かけるようになりました。

 

誰かが、それは死を連想させると言いました。言ったのは自分だったかもしれませんが、思い出せない。雨に打たれつつも天から顔を背けないその姿に、静かな諦念を感じるからでしょうか。

それは古来より日本にあり、万葉集にも詠われています。日本人にとっては紛うことなき梅雨或いは夏の季語です。

現在最も一般的に見られるものは、元々日本に自生していた原種が西洋に渡り、品種改良を経て日本に帰ってきたもののよう。花言葉も異なるようで、渡来したものは「移り気」「高慢」であるのに対し、原種が持つのは「謙虚」。

元の種は別の名を「額の花」「額咲き」と云い、中心に集まった小さな蕾のような花びらの周りを、蝶々が舞うように大きな花びらが取り囲む様子をよく表しているようです。また、花の色がよく変わることから「七変化」の名も持ちます。咲く土壌のpHによってその花の色が変わると最近聞いた話を思い出しつつ。

 

さて、ここまで読んでおわかりでしょうか。最後に、それを詠んだ婉麗な歌を三首紹介します。その淡い色合いとその花弁に滴る月光にはなんと艶のあることか。

 

茜さす昼はこちたしあぢさゐの花のよひらに逢ひ見てしがな(作者不明)

あぢさゐの花のよひらにもる月を影もさながら折る身ともがな(源俊頼

夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり(藤原俊成

最近の記録

杳です。溜めたものが溜まったのでまとめた。

 

2022年5月16日(月)

軽い地獄だった。

人は、幾度もこのような軽い絶望に耐えしのぶことでいつか来る本当の絶望に備えるのだと、虚空を見つめて30分間エアロバイクを漕いだ。運動不足です。

 

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